またこの話です。
昨日見た知人のフェイスブックで嫌な思いをしました。
よくある優先席を巡る議論です。
一般的な考え方だと思うんです。
私だって体が不自由になる前は、同じことを考えていましたから。
目の前に高齢者が立っているのに、座ったまま寝たふりをしたりスマホをいじっている若者を批判すること。
まあ、一般的な考えだと思います。
そんな話を聞くと、つい言ってしまうんです。
見た目で分からない障害者もいると。
そうすると大抵返ってくる言葉があります。
その通り、でもその人は違うと思うんだよね
だから見た目で分からない障害者かもしれないよと言ってるのに・・・
今回見かけた人は違うと思うけど、そういう人もいるもんね、と。
悲しくて笑える。
今回私が嫌な思いをした話も、同じような返事がかえってきました。
そういう可能性も考えた上でよく観察しました
その場で席を譲らなかった人に対して何かを言ったわけではなく、帰宅後にフェイスブックで今日の出来事として投稿したということなんですが。
どこかに障害者らしきところはないかと、よ~く観察したということですが、だからそれじゃ分からないってば。
よ~く観察して分かるなら、それは程度の差はあっても見た目で分かる障害者です。
よ~く観察しても障害者に見えないから、見た目で分からない障害者なのに。
この人学校の先生なんだけどな。
「観察」ってねえ、なんで高齢者に席を譲らないというだけで、本当に事情があるのかジャッジされなきゃいけないのか。
この投稿にこんなコメントもありました。
これもよく言われる言葉だけどもね。
それは頭の不自由な連中だから
これも学校の先生です。
この他にも聞くに堪えない言葉がいくつも。
ご本人達は、自分たちを弱者に思いやりを持っている人間だと思い込んでいるようで・・・
なんだかな~です。
多分、こういう議論で「見た目で分からない障害者かもしれない」という意見を言われても、全員が全員見えない障害者の可能性は低いだろ、と思うのでしょう。
そうなんです。
その場面で譲らなかった人が障害者かどうかが問題なんじゃない。
譲らない人を見た瞬間、批判的な感情を持ってしまう、それが問題だと思うんです。
身体の不自由な人や高齢者には席を譲りましょう・・・を声高に言うと、譲らない人に対してどうしても批判的になります。
そういうことになると、本来の目的とかけ離れたものになります。
見た目で分からない障害者は席に座るのがとても難しくなります。
座って目の前に高齢者が立つと、自動的に批判の対象になります。
弱者を守ろうという思いやりが、いつの間にか弱者に厳しい社会を作ってしまった。
見た目に分からない障害者には厳しい世の中です。