前回の記事で『諦めるのは私の本分』と書きました。
何でも諦めます。
この世に人として生まれると、様々な場面で『諦めない』ことを教え込まれます。
んー、違うなぁ。
『諦めない』ことが正しいとか、美しいとかそういう考えを、絶対に間違っていないことのように刷り込まれるというのかな。
私だってそうだったんです。
ZARDの『負けないで』も、大事MANブラザーズの『それが大事』だっだか、素直に良い曲だと思うし嫌いじゃない。
でも今は諦めるべきことはアッサリ諦めます。
脊髄小脳変性症と診断されて5年が経ちました。
治療法が無い進行性の神経難病。
診断直後は、まず意味がわからないんですよ。
だって普通はどんな病気でも、よくなる可能性が低くても、何かしらの治療はするものだと思っていたから。
それがこれから一生、病気がどんな風に進んでいるのか、治してくるわけでもない医師に見せ続けなきゃいけない、そんなことがあるなんて。
ほんとに意味がわからない。
あぁ、病人扱いもしてもらえない、そんな病気が世の中にはあるのかと初めて知ったわけです。
よく受容という言葉を聞きますが……あれですね、キューブラーロスですよ。
否認→怒り→取り引き→抑うつ→受容、という死の受容のプロセスというやつです。
これを診断直後に参加した難病患者の交流会で、どこかのお医者さんが説明していました。
なにしろ足を踏み入れたばかりの難病ワールドです。
受容のプロセスに興味深々でした。
これから自分も、このプロセスを経験するのかと。
でも実際にはそんな単純な話ではないですよね。
生身の人間です。
私の場合は、否認も怒りもありませんでした。
今思い返してみてもやっぱり無かったと思います。
そして、取り引きも抑うつも無い。
最初の3年くらいの話ですが。
その時期には『どうして私がこんな病気になるの⁈』という激しい感情が、なぜか湧かなかったのですよ。
普通はそういう感情を持つものだと思うのに、
なぜ私には無かったか?
それは症状が軽い上に、進行もゆっくりだったからにほかなりません。
杖を持つようになったり、パートの仕事が続けられなくなったり、障害者手帳や要介護の認定を受けたり。
それでも他の同病患者さんより、どう考えても症状は軽いのです。進行もゆっくりなんです。
だからジタバタすることなく、現状を受け入れられたのです。
難易度が低かったということか。
このまま書き続けたかったんですが、気付いたら今は夜中の3時でした。
さすがに眠くなったので、今日は寝ます。
こういう尻切れトンボになることがよくあるブログです。
すみませんがおやすみなさい。