私には後悔していることがあります。
障害当事者としての強みを活かせなかった出来事でした。
今から数年前、私の通う教会に聴覚障害を持った人が来ました。
私は若い頃に耳の聞こえない人と一緒に働いたことがあります。
当時は日常的に手話を使って話していたような。
勿論完璧な手話を使っていた訳じゃないです。
ただその人とコミュニケーションをとるには十分だった、そんなレベルだったと思っています。
だから私の教会に手話を使う人が来た。→私が案内しよう。
単純にそう思ったわけです。
礼拝中私はその人の隣に座り、今何をしているのか、誰が話しているのか、結構頑張って通訳した。
手話と筆談で頑張った。
だけど、牧師の説教はギブアップ!
30分くらいと時間が長い上、日常会話に出てこない単語もジャンジャン出てくる。
説教の通訳は無理だったけど、それ以外はなんとかできた。
その人はそれからも何回か、教会に来てくれた。
2ヶ月くらいか。
私以外の人達も挨拶など簡単な手話を覚えてくれて、コミュニケーションが取れるようにはなった。
でも、でも、難しい。
私は自分の障害を厄介なものだと思っていたけど、いやいや聴覚障害も大変だ!そう思いました。
耳から入る情報量は物凄い。
ブログを読んでいるあなたにどうやって書いたら伝わるか、正解が分からないけれど耳って凄いんですよ。
手話や筆談で伝えるには時間がかかる。
当時教会ではその人の為に(特に情報保障)どうしたらいいか、いつも話題になっていました。
私の通う教会は小さいのです。かなり小さい。
だからマンパワーが足りません。
というか無い!
情報保障は難しいのです。
そうこうしている間に、その人はパッタリ来なくなりました。
私が手話を使えることに喜んでくれ、『私は障害者です』と手話で話すと、その人は表情を変え、一気に距離が縮まったっけ。
同じ障害者として期待してくれていたかもしれないのに。
力不足だったー!ととても後悔しました。
つらつら書いてしまいましたが、教会内であーでもないこーでもないと話していたとき、『ご本人に聞いてみませんか』と言えばよかったのに、という後悔の話なんですよ。
迎える方としては完全な形を求めてしまい、話はそこで止まってしまう。
重度障害者になった今なら言えます。
完全な形でなくても構いません。
何ができて何が無理なのか、ちゃんと話してほしい。
そして障害当事者に聞いてほしい。
どうしたらいいのか。
当事者じゃないと分からない方法、道具、制度、ウルトラC!いっぱいありますから。
これは当事者抜きでどれだけ話し合ったって、名案は出てきません。たぶん。
そうそう、障害者のことは障害者に聞いてよ!って話でした。