今朝、多系統萎縮症の患者さんのブログで読んだ言葉です。
この病気が進んでいったとき、多くの人がぶち当たる問題、気管切開と胃ろうについて書かれた記事についたコメントのお話でした。
紺美さんという方のブログなんですがね。
「這ってでも生きろ」、この言葉、まるでノーブレーキのダンプカーが心に突っ込んでくるような衝撃を覚えました。
這ってでも生きろ
これは文字通りなんです。
この病気の人の歩行に代わる手段としてハイハイはよくあることです。
私も夜などの暗い状態だと、ほんのわずかな距離でもハイハイで動きます。(家の中限定)
立って歩くのは危険すぎるので。
2本足より4本足、できるだけ床に近い場所で歩く、そうするとハイハイが一番安全になる。
同病さんの間ではお馴染みの「ハイハイ」、まさに「這う」ってことなんです。
多分紺美さんのブログに出てきた「這ってでも」というのは、こういう完全な形の「ハイハイ」ではないんだと思うんです。
「ハイハイ」の形を成してない、もしかしたら身体を引きずっているだけの「ハイハイ」、そんな状態を指してるんじゃないかと思います。
そんな状態でも生きろという言葉、それでも人間は生きなきゃいけないという厳しさを感じます。
別に紺美さんがそうやって生きろと言っているわけじゃないんです。
紺美さんもこの言葉に何とも言えない感想を持っていらっしゃるという話なんですがね。
私もこの「這ってでも生きろ」という言葉にはやられました。
人からどう見えたっていいってことですよね、もう。
「もうどうなったっていい」という私がよく陥る状態で生きるんじゃなくて、この命の続く限り、どんな身体になったって生き続けろ!ということですよね。
ジェットコースターに乗ってるみたいに、上がったり下がったりと感情に弄ばれてる私ですが、「這ってでも生きろ」この言葉は心の真ん中に置いておきたいなと思いました。
これから先もどうでもよくなってしまう時があるとは思うけど、「這ってでも生きる」という気持ちを忘れないでいこう。