書きたいことはどんどん増えていくんですが、とにかく新しい出来事から・・・
今日は教会に行ってきた話です。
自分に当てはまる本に出会えない
以前ブログにも書いたような気がするんですが、この1年は生き方指南の類の本を探していました。
探していたというより、書店に入るとどうしてもそういった本が置いてあるエリアから出られなくなります。
無意識に探しているんですね。
今の自分の状況にピッタリの本を。
最近はお坊さんが書いた本などが多く、よく手に取ってしまいます。
目次を見ると、人生で起きるあらゆる苦しみや悩みがズラッと並んでいます。
ひとつひとつ、その問題とどう向き合うかといったことが書かれています。
当然私は病気に関係するページを読みたくなります。
読んでみると大抵の場合、治すことが大前提になっています。
闘病中の心の持ちようなどが、書かれていることが多いですね。
治らない病気に関しては、いきなり死まで飛びます。
どうやって死と向き合うか、そんな内容が多いような気がしました。
今の自分にピッタリの言葉
そんな本ばかり読んでいると、なんとなく仲間外れにされたような寂しい気持ちになってしまうんです。
生き方について書いた本も売ることを考えれば、できるだけ多くの人がイメージしやすい内容である必要がありますものね。
病気になったのなら、治療。
時期が来たら、死。
これが一般的ですよね。
治療法がなく、徐々に動かなくなっていく身体で生きていく。
家族に負担をかけながら生きていくことの難しさや恐怖、そういったものを抱える人にビビッとくる本なんて、なかなかありませんよね。
だからこういった本を見るたび、どんどん寂しくなってしまいます。
治療や死と全然違う場所に置かれてしまった難病患者や障害者・・・たくさんいるのにね。
そんな人達はどうやって正気を保っているんだろう?
私の病気は正気を保つなんて表現が必要なほど、激しく苦しみ悩む病気でもないと思っているけれど、ふとたまに思う・・・
気が狂ったとしてもおかしくない病気かもしれないよな~と。
突然身体の全てが動かなくなってしまったら、ついでに話す事さえできなくなってしまったら、それは正気を保てるものではないと思います。
でも徐々に、すこ~しずつ時間をかけながらその状態になる場合はどうなんだろう?
あちこち不自由になってはくるけれど、昨日の私と今日の私に明らかな違いはないので、毎日が穏やかではある。
繰り返しになってしまいますが、ふと考えると私ってとんでもない病気になっちゃったんだよな~と思って恐くなる。
そうすると何か、杖や手摺じゃないけど掴まるものが欲しくなる。
そうならない人もいるでしょうが、私は欲しいです。
それがないとこの人生を歩いていけないわけじゃない、でも心のよりどころみたいなものが私は欲しい。
こういうことを言うと宗教のお誘いとか来たりするのかしら・・・(笑)
私の心にビビッときた言葉
そんな私にも読むたびに深く頷き、生きる力をくれる本があります。
数年前に買った「生きかたを変える聖書のことば」
- 作者: 雑賀信行,フォレストブックス編集部
- 出版社/メーカー: いのちのことば社フォレストブックス
- 発売日: 2005/03
- メディア: 単行本
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なんでこんな本を買ったのか、覚えていないんですがね。
だって創世記に書いてあることなんて、全く信じられませんしね。
その頃、何か悩んでいたのか?
この中に書いてある言葉にこんなものがありました。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
この言葉だけが、病気になった私の心のどこか深くにある正体不明の感情に直撃したのです。
なんだか聞いたこともない例えをしましたが、つまりはビビッときたということです。
まさしく脊髄小脳変性症は試練です。
けれどその試練とセットで、沢山の脱出の道ももらいました。
脱出の道とはいってもこの病気からの脱出ではなく、病気によってもたらされる、あらゆる苦しみからの脱出なんだと私は理解しています。
それは何度も書いていますが、職場の上司だったり、難病相談支援センターの相談員さんだったり、もともとの知り合いだった車椅子のIさんだったり・・・
その他にも書ききれないくらい沢山の有り難い出会いがありました。
多分私の人生の中で、これほどラッキーなことがあった年は無かった気がします。
脊髄小脳変性症の診断は去年の12月なので、今年の出来事には入りません!
だから今年はスペシャルないいこと尽くしなんですよ。
また話が逸れてしまいましたが、この聖書の言葉が私の中でクリーンヒットしたんですね。
他にもこの本に載っている沢山の言葉を読んでみましたが、どれも私の心に響くものばかり。
聖書って大昔に書かれた古い本だからなのか、書いてあることは曖昧でイメージしにくいものばかりです。
逆にその曖昧さのお蔭で、自分のことに置き換えやすい。
これはもっと知りたいな、読みたいなと自然に思うようになりました。
これが神のお導きってものだったりするの?
とても長くなりましたが、そんなこんなで先日ついに教会へ行ってきました。
教会はよく「お気軽にお越しください」なんて言ってくださるようですが、無理です。
縁もゆかりもない教会に気軽には行かれません。
突然こんな私が門を叩いても、よく来ましたねと言って優しく招き入れてくれるのか?
(妄想だけがどんどん膨らんでしまう)
不安でしたが突撃です。(笑)
結果は何の心配もいらなかった・・・です。
そして何か因縁めいたものも感じてしまいました。
教会の入口は大きな引き戸。
中に入ると玄関にいわゆる土間は無し。
床の色が土足エリアと土足NGエリアを分けるだけで段差無し。
玄関を入ったところから、手摺がある。
内部も欲しいところに必ず手摺がある。
そしてトイレの入口も大きな引き戸。
極めつきはリフト付きの階段。
以前この教会の信者さんに車椅子の方がいたということでした。
もう亡くなられたそうですが、その方の病気も私とよく似た病気でした。
なんとなく、私は来るべくしてこの教会へ来てしまったのかなと思った出来事でした。
神様を信じているわけではなく、むしろ日本の神様(天照大御神のほう)を大事にしている私が教会なんて行っていいのか分からないけど、もう少し心が落ち着くまで通ってみようかな、なんて思っています。
まずは明後日の日曜日、行ってきます。